相模原殺傷事件 ー我がこととして

2016年8月25日 20時14分 | カテゴリー: 活動報告

戦後最悪の殺傷事件が起きてから、一か月が過ぎました。

新聞やインターネット上では、事件に関しての様々な立場からの多様な意見が寄せられています。
私はこの事件から、優生思想の醜悪さ、障がいのある方がこの社会で生きていくことの困難さをしみじみ感じました。
被害にあわれた方や、そのご家族の悲しみ、苦しみ、その後も続く恐怖について思いを寄せることはもちろん大切です。そしてまた、この事件とそれを起こした思想について、我がこととして考える必要があると強く思うのです。

報道機関で被害者の名前を公表しないことはおかしい。しかし、家族が施設に入居していることを知られたくない人もいると聞くと、そういう人もいるかも、と思ってしまう自分がいる。家族を失った悲しみはいかばかりか、と思いをはせる半面、中にはほっとしている人もいるかもという意見を聞くと、まさかと怒りつつもほっとする気持ちも理解できてしまう。障がい者が家族にいるということは、素晴らしい出来事がある、本人にも生きがいや喜びがあり、周りの人々を幸せに導くことができる大切な生であると知ってはいても、その日常生活はさぞ大変だろうと思ってしまう。
そんな相反する気持ちが、人々を戸惑わせているのではないでしょうか。

もし、優生思想を主張する人たちが望むように、この世に重い障がいがある方々がいなくなったとしましょう。ナチスの例をみればわかるように、人間はそれを実行しうるおぞましい存在です。しかし、障がい者はまた生まれてきます。それは、自分の子どもかもしれないし、孫かもしれない。また、事故や病気で障害を負うこともあるでしょう。自分や家族、友達がそうなるかもしれない。齢をとれば、体も次第に不自由になる。誰もがその当事者であるのです。社会に抹殺されることを恐れる日々の訪れ。そんな世の中を望む人がいるのでしょうか?

それは、一部の偏った人たちの考えだと、ただ否定するでしょうか?
2013年から、血液検査だけで結果がわかる新型出生前診断ができるようになりました。その臨床研究では、胎児の染色体異常が確定した9割以上の妊婦が中絶を選択しています。赤ちゃんに障がいがあった場合、その誕生をすなおに喜ぶことができない。あるいはできない人がいる。それが今の社会です。

以前も書きましたが、歴史学者、市井三郎氏の次の言葉をもう一度、繰り返したいと思います。
「歴史の進歩とは、自らに責任のない問題で苦痛を受ける割合が減ることによって実現される」

私は、進歩した社会に住みたい。障害がある子どもが生まれてきても、その親と本人が経済的にも社会的にも苦痛を受けることのない社会、すなおにおめでとうと喜べる社会。それは自分たちで作っていくしかないのです。
この事件を契機に、ひとりひとりが我がこととして考えていく。それなくして社会の進歩はありえません。