「道徳」の教科書採択について

2018年7月26日 19時44分 | カテゴリー: 活動報告

7月26日、大和市教育委員会が開催され、新しく導入される教科「道徳」の中学校の教科書が採択されました。昨年採択された小学校の教科書と同じく「光村図書」が大和市中学校の教科書として採択されました。

私を含め、60人ほどの傍聴者が見守る中、教育長の進行で4人の教育委員が審議を行いました。採決の方法として、大和市採択検討委員会の報告書を尊重した中で意見を出し合い検討する、委員の挙手により過半数を超えた教科書が採択されることが決定されました。(採択検討委員会の報告書は、下記に写真を載せてあります。検討委員会の推薦順に教科書会社名が載っています)

どの委員も押し付けではない、自分で考えることを重視し、生徒たちがお互いに話し合い、他の生徒の発言を認め、その上で自分の考えを作る、その手助けになるような教科書がふさわしいと考え、よく読みこんで審議されたのが伝わってきました。
採択された光村図書の教科書は、教材の選択が巧みで学ぶテーマが明確、広い視野、多様な考え方を重視している、道徳を学ぶ意義が生徒に伝わりやすい、などの評価がなされました。日本文教出版は、「道徳ノート」が別冊にあることで、先生が教えやすく、生徒も学習をした成果が実感できるといった意見がある一方、授業がやりやすい半面、方向が決まってしまいがちなのではないかという意見も出されました。
採択は、光村図書3人、日本文教出版1人で、光村図書が中学校の道徳の教科書に決定しました。

そもそも「道徳」が成績を付けられる「教科」となることに対する疑問は、多くの人々にあるようです。大和市議会でもそれに関する発言は度々なされます。一般質問で取り上げた議員もいます。国でやると決めた以上、公立学校ではその教科を取り入れざるを得ません。市の答弁で、成績は他の教科のような数字によるものではなく記述式であること、高校の受験には影響しない事が明らかにされています。しかしそれでもなんだか違和感があるのは、教科とは基本的に「教えるもの」であるという認識が多くの人にあるからではないでしょうか。

「道徳」とは、広辞苑によると「善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の相対」、また新明解国語辞典によると「社会生活の秩序を保つために、一人ひとりが守るべき、行為の基準」です。平たく言うとみんなが守るべきとされている社会ルールとか、モラルといったものでしょうか。殺人などの刑に値するような事柄ではなく、人には親切にとか、周りに迷惑をかけないとか、円満な社会生活を送るために爪はじきにされないための基準です。それは国や地域によっても違いますし、時代によっても違う相対的な基準です。それを「教える」ということは、これはいい、これはいけないと白黒つけるようなもの。そう思ってしまうから、なんとなく拒否感があるのでしょう。また、教科化に賛成の人は、人としていい悪いを教えて何が悪い、と思っているでしょう。

道徳は、人間の生き方はこうあるべきだと教え込むのではなく、自分で考え、自分で学んでいく教科。こんな生き方、考え方があるんだと学ぶ教科だと今日の委員会で教育委員の方々は述べておられます。教科書に載っている一つひとつの教材は、時には涙を誘うような感動的なもので、生徒に人生について深く考えるきっかけになってくれることと思います。「道徳」が、生徒一人ひとりが人生について深く考えていく、そして一人ひとり考えが違っていて当たり前だと思えるような、そんな時間になったらどんなに素晴らしいかと思います。

が、そんな時間になるか私には疑問です。
子どもが学校でよい成績をとること、これが何よりも重視されているからです。
教科書の内容は素晴らしいかもしれません。先生も実りあるより良い授業になるよう努力されることと思います。多様な意見を尊重する、人の意見に耳を傾け、自分で考えた意見を言うことが素晴らしい、それが基本ではあっても、道徳は「善悪を判断する基準」です。ほぼ正しい答えがあります。先生はそちらの方の考えに大人として誘導せざるを得ない。子どもは、特にいわゆる成績の良い子どもは、「先生の思い」を敏感に嗅ぎ分けます。自分は本心では違う考えではあっても「正しい」答えを発言するでしょう。そして「成績」がつけられます。数字で表さないとか、受験に関係しないなどは重要ではありません。「正しい答え」を模索していくうちに、それだけが正しいと思う子どもが増えていく、それが問題なのです。

「表現されたもの」、特に文章はどんなものでも必ず書いた人の思想が入り込みます。どんな文章を選ぶか、そこにも選んだ人の思想が入ります。同じ文章でも問いの立て方によって、答えは変わってきます。視点の違いによって、見方が全く変わる、それが言葉です。特に教科書は「教科書検定」を通らねばなりません。そこには今の国の思想が入っています。だから教科書採択に注目が集まり、多くの市民が傍聴に押し寄せるのです。思想の押し付けになるのではないか、多くの市民はそこを危惧しています。

児童生徒に「考える」力をつけさせるには、私は「道徳」よりも「哲学」を教科に導入した方がよいと思います。答えのない問いを立て、自由に話し合う、そこにこそ自由な発想は生まれます。「トロッコ問題」、あるいは「トロリー問題」というのをご存知でしょうか?ある種の思考実験です。どこにも正解はない。そしてほとんど絶対、自分はそんな状況におかれることはない。自由な立場から自分の考えを言うことができます。あるいは大和市で行っている「対話による美術鑑賞事業」。絵を見て自分の考えを述べる。ここにも正解はない。この授業では、「友達の考えを聴く」「自由に自分の考えを述べる」それが実現しています。(詳しくは、2016年3月の一般質問の記述をご覧ください)それでよいではありませんか。

とはいえ、粛々と教科書は決まり、中学校での道徳の授業は来年から始まります。(小学校はもう始まっています)
「考える力をはぐくむ」ためのこの教科が、学校での「日の丸君が代問題」のようにならないことを祈るばかりです。